掲示板に投稿される怖い話を読んでいると、たまに民話との共通点を感じることがあります。
掲示板の投稿も民話でしょうけど(笑)、ここでいう民話は昔話と思ってください。
先日載せた「神田の路地裏にて」も民話との共通点を感じて思わずおぉっ! となったお話です。
学生時代に恋人と外でエッチする場所求めて路地裏に向かうと(すごいな)、恐ろしいナニカに遭遇して逃亡。
その際「髪留め」を落としたことに後で気づき、取りに行くと「髪留め」はボロボロになっていた。
ストーリーはこんな感じです。
真っ先に思ったのが、民話で言うところの「呪的逃走」に似てるなぁと。
「呪的逃走」というのは民話のモチーフの一つで、有名ドコロでは「三枚のお札」があります。
坊主が栗拾いに行った先で山姥に連れ去られ、逃れるために次々と御札を投げて和尚さんのところに向かう昔話です。
柳田国男さんが遠野で採集されていますが似た話は全国に分布しています。
民話ではお決まりのオチが違うバリエーションも豊富。
山姥が小さくなったところを餅で包んで和尚さんが食べたり、踏んづけたり、御札の効果で途中で山姥を倒しちゃったり。
でも決まっていることは「逃げるために持ち物の何かを投げ捨てること」。
もう一つ、興味があったのが大通りから細い路地に入った途端に怪異に遭遇した点。
現代的な辻ですね。
辻はあの世とこの世の境目だとか気が溜まる場所だとか言われて道祖神を祀ったりしておくんですよね。
無論ミチシルベ的な意味もありますが、道祖神=賽の神ですから呪術的な側面もあるんでしょう。
同じように三枚のお札ではそれが「雪隠(せっちん)=便所」になってます。
坊主は山姥に言って便所に向かい最初の御札で逃走を図ります。
一昔前に「トイレの神様」なんて歌が流行りましたが、トイレには神様「厠(かわや)の神」がいるという信仰があります。
またトイレ自体が異界との境界線という考えがあって、これは現代でも都市伝説としてトイレの花子さんや赤紙青紙などを生み出しています。
実際、三枚のお札の話には和尚さんからではなく、厠の神から御札をもらうという派生ストーリーも存在します。
ちなみに三枚のお札自体も、日本神話にあるイザナギの黄泉の国からの逃走譚が元ネタではないかというお話もあります。
道祖神が異界の門である辻に置く岩とするなら、さしずめそれって千引きの石だよなぁと思ったり……ただ塞の神は日本書紀でイザナミから逃れるために投げた枝を岐神(クナトサエノカミ)と呼んだことから来ているそうです。
日本に限らず、この手の呪的逃走については世界各国に存在しています。
ヨーロッパ系の話で登場する際は大きな話の一部に組み込まれてることが多いようです。
こんな感じで、ちょっとした話の中に古典との共通点があるのを見ると嬉しくなります。
もっとも作り話であれば面白かったで済みますが、怪異と遭遇した当人にとっちゃたまったもんじゃありませんね。
夜桜は写真にすれば白く写るけど、目で見るとピンクがかってみえる。これは脳が補整しているからで、桜なら薄い桃色だからそう見えてるはず!と寄せて解釈してるとかなんとか。
体験を思い出して再解釈するとき、昔話なんかが基準になってたらちょっと面白いですね。
人が求めるものは時代が移り変わっても恒常的なところがあって、伝説・怪談・ネットロアにはそれが明確にそして俗っぽく表れているなと思います。与えた痛みは反発する、そして痛みは螺旋のように後世に回る。痛みではなく癒やしも同じ。人対人、自然対人、構図は違えど物語が訴えているメッセージに揺らぎはないなと。それを教訓と捉えるか、ルールと捉えるかでまた語り口のニュアンスも変わって面白いところです。怪異は「いる」「いない」の次元ではなく、「ある」か「ない」かの次元で現実に定着しているのは、人が自らを見つめられることが出来る生きものだからなのでしょう。だからこそ時間に置き去りにされることはなく、ながく語り継がれていくのでしょうね。