助手席の紳士

私は5年程前まで訪問看護をしていました。
これはその訪問先での話です。

今から10年近く前、年老いた夫婦が住む小さな木造の貸家に訪問していました。
ご夫婦とも90歳くらいで足腰が弱く、近県に住む長男が時々来て買い物など行っている状況でした。
それでも、二人で支えあいながら穏やかに暮らしておられました。
ある日のこと、いつものように病院の管理する軽自動車をお宅の庭先に停め、縁側にたたずんでいる奥さんに
「こんにちは、看護師の○○です」
とあいさつをしながら家に上がりました。
家の中では、旦那さんがニコニコと笑みを浮かべて迎えてくださいました。
「今日も暑いですね」
「なかなか雨が降らなくて」
など時候のあいさつを交わし、それでは血圧や体温を測りましょうという段になっても、なかなか奥さんが居間の方に戻ってこられません。
見ると、縁側にたたずんだまま、じっと私の降りてきた車の方を見ています。
不思議に思って
「どうしたんですか? 庭に何かあるんですか?」
と奥さんに尋ねると、奥さんが首をかしげながら
「ねえ、看護婦さん。どうしてあの先生は一緒に降りてこられないんですか? 車に乗ったままじゃあ、暑いじゃないですか。降りてくるように言ってくださいよ」
とおっしゃるのです。
確かに、その頃は時々医師の往診に付き添ってくることがありましたが、その時は私一人の訪問でした。
「え? 私は一人でここに来たんですよ、今日は先生は乗せてこないですよ」
と言うと、奥さんはさらに不思議そうに首をかしげながら、
「あら、おかしいわねえ。ほら、看護婦さんが乗ってきた車の、助手席に、確かに男の人が乗ってるんだけどねえ。シャツにネクタイを締めて、帽子かぶって。先生じゃないんですか?」
と。
ええっ? と驚いて庭先の車を見直しましたが、もちろん助手席に人影はありません。
奥さんは
「そう、私の見間違いなのかねえ……」
といぶかりながら、居間に戻っていきました。
不思議な話です。

pasuteurella

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